「ふたりのイーダ」 [映画]
〔1976年/日本〕
小学4年生の直樹と、
3歳のゆう子は、
夏休み、母の仕事のため、
広島の祖父母(森繁久彌・高峰秀子)の家に
預けられる。
幼いゆう子は、
何かある度に、
「イーダ」という顔をして、
皆を笑わせている。
翌日、直樹が蝶を追いかけていると、
小さな椅子が歩いているのを見て、
仰天する。
あとを追っていくと、
椅子は雑木林の中の朽ちた洋館に入っていった。
さらに、翌日、
ゆう子の姿が見当たらず、
洋館に行ってみた直樹は、
ゆう子と椅子が、
仲良く遊んでいるのを見る。
椅子は、ゆう子を、
かつてこの洋館に住んでいて、
出掛けたまま帰ってこない、
「イーダ」という少女と勘違いしているのだ・・・。
観終わった時の感情を、
どう表現したらいいのか。
何ともやるせなく、
悲しく、
淋しく、
辛い物語だった。
主人公は、一応、少年・直樹という事になるのだろうか。
でも、本当の主人公は「椅子」だ。
椅子は、待っている。
出掛けたきり帰ってこない、
幼い少女・イーダと、
彼女の祖父を。
椅子には、時間の概念がないらしく、
2人が消えたのは、
「昨日」だという。
けれど、洋館にあった日めくりカレンダーの日付は、
1945年8月6日になっている。
イーダと彼女の祖父は、
その日、広島の中心部に出掛け、
原爆にあって死んだのだ。
でも、そんな事を全く知らない椅子は、
2人が帰ってこない理由がまるで分らず、
途方に暮れている。
直樹から事情を聞かされた椅子は、
ショックを受け、
広島に、イーダを探しに行こうと歩き出す。
ラストの、椅子の身の処し方は、
言葉にならない。
ゆう子が大声で泣いたのも分かる。
大人だって、泣きたくなる。
この物語の、どこに心を打たれるのか。
それは、
椅子の、
イーダへの愛情に、
一点も曇りも、
計算もない、
ただひたすら純粋なところにあると思う。
そういう意味で、
イーダを待っているのが、
人間でなく、
無機質な「物」にした意義は大きい。
荒唐無稽なようだけれど、
考えさせられる反戦映画だと思う。
近いうちに、
松谷みよ子さんの原作も読んでみたい。
評価 ★★★★☆